独り言1

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独り言です。
 
 
ここのところずっと過去問を解いているのだが、去年よりも正答率が上がっている。これは、「英語ができるようになったから」というより「現代文ができるようになってきたから」というほうが正しいかもしれない。言い換えれば、「『論理的思考』ができるようになってきた」から、「英語ができるようになってきた」ということだ。

早大社会科学部2002年度の大問2を例として挙げてみる。

 リスク(自ら覚悟して冒す危険)という概念は蓋然性概念や不確実性概念と切り離すことができない。結果が100%確実な場合にはリスクを冒していると言えるはずがない。
 この言い分が正しいことをかなり適切に証明する言い古された小話がある。ある男が100階建ての超高層ビルの屋上から飛び降りる。落ちていく途中、各階を通過する際、ビル内の人たちは彼が「これまでのところは順調」「これまでのところは順調」「これまでのところは順調」・・・・・・と言っているのを耳にする。彼はまるでリスクの見積もりをしているかのように振る舞っているが、結果は初めから決まっているのだ。

これは冒頭の2つのパラグラフの和訳である。去年この大問2の設問に挑戦したとき、僕は全く正答を得ることができなかった。そのときは「英語力がまだたりないからだろう」と思っていたのだが、その考えは間違っていたはずだ。なぜなら、日本語である全訳を読んでもさっぱり内容を理解することができていなかったからである。最初に筆者によるリスクの定義がなされ、次にリスクにあたらない例を出していることなど全く気づけなかったのだ。

今年は現代文に力を入れて勉強してきた。当初、それは当然、日本語の読解力を上げ、今年2月の大学不合格の一因である国語を克服するためのものだったのだが、ここにきて英語がその恩恵を受けているように思われる。

その証明になるかはわからないが、先に示した引用文を、今なら次のように自分なりに理解することができる。
1.リスクとは偶然性や不確かさを備えているものである。
2.言い換えれば、結果が最初からわかっているなら、それはリスクとはいわない。
3.例を挙げれば、100階建てのビルの屋上から飛び降りることは"死"という結果がわかりきっているのだから、この行為はリスクとはいえない。
こんな感じに。

出来る人にとっては当たり前すぎることかもしれないが、去年の自分にはこういった考え方が全くできていなかったのだ。ただ単に英語の構文を把握し、日本語に置き換え、その字面を追っていたに過ぎなかった。こんな読み方では、ちょっと突っ込んだ設問を出されると解けるはずがない。

同じ社学からの問題になるが、もう一例挙げてみようと思う。社学では「推論問題」が出される。これは「本文の内容から論理的に正しいといえる説明はどれか」を答えさせる問題だ。つまり、筆者の主張を正しく捉えているかを問うものといえる。

これこそ、現代文的な「論理的思考」の恩恵を受けられる問題ではないだろうか。「ある事柄に対して筆者はどのような立場にあるか」を理解し、「その延長線上」を推論する。これを論理と言わずに何を論理と言えようか。ただ単に字面を追い、表面をなぞるだけの読解では正答を得るのは(不可能ではないとしても)かなり時間を食う作業になるだろう。

ここで「パラグラフリーディング」というものを考えてみる。パラリーの一般的な定義は「パラグラフ単位の役割を理解し」「いち早く筆者の主張を見つけ出す」といった感じだろうか。僕は、パラリーという技術は、これを使いこなせる人と使いこなせない人がいるのではないかと思う。なぜなら、「現代文において筆者の主張を捉えられる人なら、英語の文章においても同様に筆者の主張を捉えられるようになるのは不思議ではない」が、その逆、つまり「母国語である日本語で書かれた論説文において筆者の主張を捉えられない人が、一体どうして英語で書かれた文章の主張を捉えることができようか」という考えを持つようになったからである。

去年の(というか今年初めまでの)自分は、当然のごとく、後者に属していた。確かに、英語の試験で出題される論説文は現代文に比べて論理展開が安易なときがあり、例え現代文が不得意でも難なく解けてしまうということもあるだろう。だが、日本語でできないことを英語で身につけようとしても、それは土台無理な話だろう。論理展開や論理構造の理解は、外国語ではなく母国語において訓練することでしか、カラダ(あるいは脳)にしみこませることはできないのではないかと思うのだ。

早稲田の英語では、総計1500~2000語の長文が出題される。ここで必要になってくるのは当然「速く読むこと」だろう。そのためには「論旨を追うこと」がさらに必要になってくる。だがそれは英語の学習のみならず、現代文の学習においてこそ効果が期待できるのではないかと思う。去年の、現代文の勉強を軽視していた自分をただただ恥じるばかりだ。



長々と偉そうなこといってすいません・・・。こういうことはちゃんと受かってから語るべき内容であることはわかっています。でもここ何ヶ月かずっと頭の中にあるもやもやとしていた考えを、今日は何か勢いで文章化できそうな気がして、やってしまいました。
稚拙な文章で読みにくかったと思います。そして内容も、色々突っ込みどころがあるかもしれません。ですが今自分はこの考えに従ってやってきていて、否定されると自信喪失につながりそうなので、コメントは外しておきます・・・。独り言として扱ってください。自分勝手ですいません・・・。
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